今日も夜な夜な絵を描く。
言葉を書く日もあるけれど、
最近は絵のことを考えている。
静まり返った夜の中で筆に色をとって、
キャンバスにのせて描いていく。
思うがままに、色を作れるというのは心地良い。
頭の中のイメージが具現化して、
“作品”になると私はほっとする。
想像した色は作れど、形を再現する力はまだまだ足りなくて、自分の今の力量に落胆する。
今までは、その自分の力量に向き合わず、
目を背けて生きてきたのだと思う。
小さい頃から絵を描くことが好きで、
絵がとても上手な姉の影響で見様見真似で描き始めたのがきっかけです。
親が「上手だね」と褒めてくれるのが嬉しくて、楽しくて、ずっと絵を描いてきた。
学校の成績も美術は抜きん出て良くて、安心しきっていた。
高校に入学し、周りには私よりも絵が上手い子が沢山いた。
それでも心に触れないように、
私には音楽があるんだって、
何処かで逃避していたのだと思う。
大人になったら勝手に大人の字が書けるようになると信じ込んでいたように、
絵もいつかきっと上手くなるんだと都合よく考えていた。
途中で気がついた。
そんなことはないんだと。
ずっと前から気がついていた。
姉は私の何十倍も、何百倍も絵を描いていたのを、知っていた。
表現全てにおいて言えること、
自分自身にしか生み出せないものは何か。
歌が上手いこと 絵が上手いこと
技術だけでは人の心を揺らせないこともある。
頭の中にあるその人にしかないイメージを具現化する過程において、技術はあったほうが、自分が楽なんだと思う。
音楽においては私は大好きなアーティストと一緒に作っていきたい。
作曲もしていきたい、そこに私の大好きな人の音楽遺伝子を組み合わせてdaokoとして生きていきたい。
でも絵だけは、人の才能との融合を無しに、完成させてみたい。
だから描きたい、自由に描けるようになりたい、自分自身を救えるような絵を。
私が表現をすること・感じることが好きなのは、
人間のきれいな・こどものような無垢な情熱の結晶に触れられるからだ。
悍しい事件があったり、
淀んだ空気が漂う場所があったり、
困窮した心模様が溢れる世の中で、
作品だけはきらきらと輝く宝石のように思える。
それが闇を表現した作品であっても、
その作品を作っている時の想いは、
音楽が好きで、自分自身がカッコいいと思える表現をしたいという欲求から生まれた結晶だから、
それは存在として至極尊いものだと思う。
夢中で絵を描くこどもの姿をみているようでもある。
その作品をどう感受するかも、
想像力に働きかけて自分の世界が広がる行為なので、無駄なんてことはない。
私も、絵を描いたり、詩を書いたり、写真を撮ったり、音楽の一部になることで、自分自身を浄化している。
人間は誰しも生まれながらに固有の色・形をした光を持っている、と思いたい。
世界の煌めきを全身で感じて、共有したい。
それはとても心地よい感覚だから。
みなさんにも体感して欲しいと思っている。
違う星の人がたくさんいる中で、
数多ある表現のなかでどれが向いているかどうかは私はわからないのだけれど、
是非みなさんも心が向く表現があれば、
作品を作ってみて欲しいと思っています。
誹謗中傷が溢れている(インターネットは昔からたくさんあったよね)ことが明るみになった今、
言葉はどうして生まれたんだろう?と疑問が浮かんだ。
昨日読んだ文献によると、求愛(コミュニケーション)→歌→言葉の順で生まれたと描かれていた。
ああとても、ロマンチックだなと思ったんです。
現代と照らし合わせると、インターネットの普及もあってかSNS上や、大衆メディアの扱う言葉は最早記号に見えると思いました
まだ読み切っていない別の文献があるので、また新しい発見があるかもしれません。読むのが楽しみです。
私は言葉を扱う身として、言葉とも向き合いたい。
言葉というものに興味がある。
詩も小説も、大好きだから。
攻撃するために生まれたものではきっと無いんだろうなと思います。
当たり前、が当たり前になるのにも進化の過程があるのであって、当たり前になる前の歴史を知りたいと思い、ひととことばの起源と進化の本を最近は読んでいます。
また感動するお話があれば、ご紹介しますね。
深夜の一人語り、お見苦しい部分もあったやもしれません、ここまで読んでくださってありがとうございました。
今日は満月ですね、特別な光が皆さまにちいさな幸せを齎してくれますよう!
ダヲコ