明日天気になあれ

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一日の殆どを家で過ごし、

食糧の調達の為、外に出る。

何通りかある近所のスーパーまでの道。

なんとなくの気分で今日の道筋を決めて進む。

ツツジがぶわ、と咲き連なる垣根。

小学生の頃迄は、採ってちゅーちゅー蜜を舐めていたなーと、思い出す。

今となっては千切るのはかわいそうでできないし、

排気ガスも気になる。

地面に目をやると、蟻が白い欠片を運んでる。

“ただ見ている”という感覚は、いつぶりだろう。

懐かしい感覚。とうに忘れていた自然観察。

旅先の山々や田んぼには、度々見惚れるけれど。

ぼーっと、ありふれた日常の、東京の、コンクリートの間を繋ぎとめるかのような、ちいさな草花やそこに生きる虫達を、傍観するのだ。こどものように。

人通りがない瞬間、マスクをズラして空気を吸う。

生ぬるく湿った風が頬を撫で、初夏の匂いが胸いっぱいに広がる。

この匂いで、じんわりと胸が熱くなるのは、何回目だろう。

深呼吸をする。

呼吸の度、記憶の中へ潜っていく。

散歩の時間に、よくこどもを見かける。

保育園や幼稚園、学校がお休みだからだろう。

私が君たちの年齢だったら、どうなっていたかな?

過去の記憶を思い返す。

断片的ではあるが景色は鮮明に次々と浮かんでゆく−−−

然し、その時の自分の気持ちが思い出せない。

ぽっかりと、空白だ。

どんな気持ちでそこに居たのかわからない。

過去の自分が、本当に今の自分と同一人物なのか、

途端に不安になったりする。

同一人物でしかないのだけども。

あれもわたし。これもわたし。 

わたし、なんだけど、今のわたし、ではない。

人間は、その生涯のうち、幾度と無く人格が再形成されていくものなのだろうか。

直近の、今現在の自分の感覚しか確かだと言えない。

現実味がなく、過去は確かな感覚と不確かな感覚、両方含んでいるから変な感じ。

夢と似ているとも言える。

此れは、単純に自分の脳の容量が相当ちいさいってことなのか?

だとしたら由々しき事態であるが…

私はもしかして、ふつう、ではないのか?

もしかしたら凄く変??–––

幼少期を振り返る最中、頭の中でこんなことを喋っていた。 

みんなの感覚が、みんなの普通が、知りたい。

まともがわからない。 

何をもって普通とするのか、正解はない。

人と繋がって生きていきたい故に、

人間に共通する感覚を知ることは、必要不可欠であると考える。

音楽を通して人間を知り、未だ知らぬ私を知りたい。

上記で書き連ねてきた通り、自粛期間中は何度も幼少期の感覚に触れる。

掃除もその要素をもつ。

時間がある分、普段より念入りに掃除をする。

床をボロ切れで拭いていると、小学校の掃除の時間を思い出す。

青いバケツが濁っていく。

身の回りが綺麗になると、

いろんな物事が すう と、こころにとけてゆく。

でも、わたしはもうこども ではないようだ。

ぴかぴかのお天気の中、行き交う歩行者を見ていると、そんなに暗いかんじがしない。

でも家に帰り、TV・ネットニュースを見ると、此方側の晴れ間は当分先のように思える。

みんながつらい。

なにかしたいんだ。 

其々がウズウズとしている。

でもお家で待とうね。

余白の中でなにかできることはないか、考える。

自分が得意な方法で、みんなとたのしめることを。

家という限られた空間で提供できる、音楽のたのしいこと、たくさんは無い。と思う。

でも何かしら必ず、或る。

ライブはできないよ暫く、きっと。

とにかく人と会わないように。

莫大な情報網・インターネットの中であっても、

今の今、出来ることは限られている。

じたばたせずに、息を丁寧に吸って吐く。

にんげんの健康が大切なので、

静かな暮らしを、暫く続けてみよう。

みなさんの暮らしが、凪の水面のように静かでありますようにと、祈るばかりです。

こころ穏やかに。

生活の中に細やかな幸せをみつけられますように。

音楽は光のよう。光は祈りのよう。

世界を変えるような大きな力はないかもしれない。

でもそれでよいのだと思う。

音がふりそそげば、辺りがあかるくなるだろう。

心に灯れば、あたたかくなる。 

稀有でうつくしい、おんがく




おんがくがすきだ

おんがくの一部になれて幸せです

ありがとう 

明日天気になあれ